ベトナム北部の山岳省ライチャウで、1982年にタイビン省から移り住んだ一人の女性が、経営破綻寸前の茶会社を買い、自宅を売って加工場を建てた。ファム・ティ・ヌ氏(Phạm Thị Nụ)。現在の会社は生葉を1日最大70トン処理し、600戸近くの農家と買取契約を結び、乾燥茶を年1,500トン近く出荷している。年商は800億ドン近く。ベトナム紙ダンヴィエットが2026年9月28日に伝えた。日本の茶・原料調達関係者にとって、この記事の読みどころは人物の物語そのものではない。輸出先がパキスタンと台湾で、日本の名前が挙がっていないという一点にある。
本稿では原単位のドン表記を残したうえで、2026年9月28日時点のレートである1万ドン=約61円、1ドル=約157円で換算する。
家を売って工場を建てた女性が、年商800億ドン近くに届いた
ダンヴィエットによると、ヌ氏はライチャウ省タンフォン地区(旧クー・ニャー・ラー集落)を拠点に、シャン・チュック・タン茶有限会社(Công ty TNHH chè Shan Trúc Thanh)の社長を務める。同社の現況として記事が挙げた数字は次のとおりだ。敷地は2ha超、緑茶の荒茶ライン3基と仕上げ用の精製設備1系統を備え、生葉の処理能力は1日最大70トン。タンフォン地区の600戸近くと生葉の全量買取契約を結び、連携する茶園面積は200ha近く。地元雇用は40人近く。乾燥茶を年1,500トン近く国内向けとパキスタン・台湾向けに売り、年商は800億ドン近くに達する。
800億ドンは10億ドン単位の「80 tỷ đồng」で報じられた数字で、上記のレートなら約4.9億円にあたる。ヌ氏は2026年の「刷新40年・優秀農民」96人の一人に選ばれた。
1982年の移住から2026年の受賞まで、何が起きたか
記事が語る経歴を年で並べると、買収の決断がどれだけ無防備な賭けだったかが見えてくる。
- 1982年、タイビン省(2025年の再編で現在はフンイエン省の一部)からライチャウへ移り、タムドゥオン茶公司の工員になる
- 以後20年、摘採期の見極めと火入れを現場で覚える
- 2002年、退職して年金の受給開始を待つ決定を受け取ったあと、休まずに生葉の買付代理人になる。中古のバイクで集落の茶園を回り、農家から生葉をキロ単位で集めて域内の加工工場に売った
- 2004年、タンフォンにあったシャン・チュック・タン茶公司が破綻寸前に陥る。生葉価格が記録的な低水準に落ち、農家が茶を見捨てて雑草が伸びていた。ヌ氏は同社の買収を決める
- 2006年、住んでいた家を売り、クー・ニャー・ラー集落の土地を買って約5,000平方メートルの緑茶工場を建てる
- 2026年、優秀農民96人に選出
買収を打ち明けたとき、親族や友人は止めにかかったという。ヌ氏はダンヴィエットに、みんなが自分たち夫婦を「どうかしている」と言い、厄介な借金を抱え込むのかと詰め寄った、と振り返っている。実際に引き継いだのは紙の上の社名だけだった。本社用地は別事業のために国に回収され、設備は錆びて古く、スクラップに出しても値段がつかない状態だったと本人が語っている。
買収時の原料地帯は100ha超で、旧タムドゥオン県スンファイ村とタンフォン地区に散在していた。反収も葉質も落ち、トウモロコシやキャッサバに切り替えようとする農家が少なくなかった。ヌ氏が打った手は、困窮した世帯への前渡し金、肥料と生物農薬の無利子貸付、そして規格を満たす生葉の全量買取と値叩きをしない価格である。ハノイ近郊で協会が畑にいるうちにジャスミンを全量引き取る仕組みと同じく、買い手が先に出口を保証して作付けを戻す型が、ここでも効いている。
日量70トン・600戸・200haは、どれくらいの産地なのか
日本のバイヤーがこの数字を読むとき、まず突き合わせたいのは省全体の規模だ。ライチャウ省の茶は、農業環境紙の2026年4月の報道で、総面積10,500ha超・収穫可能面積8,000ha超、生葉の年産約6万トン、2025年の平均反収7.9トン/haとされている。主要品種はキムトゥエン(Kim Tuyên)、シャンチェット(Shan Tuyết)、PH8。輸出先はアフガニスタン、パキスタン、中国で、輸出単価は1キロ2〜3ドルと報じられた。
| 項目 | シャン・チュック・タン社 | ライチャウ省全体 |
|---|---|---|
| 買取契約農家 | 600戸近く | 記載なし |
| 連携茶園面積 | 200ha近く | 収穫可能面積8,000ha超(総面積10,500ha超) |
| 生葉の扱い量 | 1日最大70トン | 年産約6万トン |
| 乾燥茶の出荷量 | 年1,500トン近く | 記載なし |
| 認証取得面積 | 記載なし | VietGAP 57.4ha/有機8.8ha |
| 従業員 | 40人近く | 記載なし |
| 年商 | 800億ドン近く(約4.9億円) | 記載なし |
この表で目を引くのは最後から3行目だ。省全体の収穫可能面積8,000ha超に対して、VietGAP認証は57.4ha、有機は8.8haしかない。合計66haほど、比率で1%を切る。単一の民間企業が200ha近くを契約で束ねている事実は、この省では認証よりも買取契約のほうが先に整っていることを示している。日本向けを検討する買い手が最初に確かめるべきは、認証書の有無ではなく、その契約が何を約束しているかになる。
数字を並べると、契約茶園だけでは原料が足りない
報じられた数字だけで、簡単な検算ができる。ベトナム全国では生葉100万トン超が乾燥茶21万4,000トンになると経済紙ヴィエトナム・エコノミーが伝えており、生葉と乾燥茶の比率はおよそ4.7対1になる。この比率を当てると、乾燥茶1,500トンには生葉が約7,000トン必要だ。一方、契約面積200haに省平均の反収7.9トン/haを掛けると生葉は約1,580トン。契約茶園でまかなえるのは、必要量の2割強にとどまる計算になる。
同じ比率で日量70トンを乾燥茶に直すと1日15トン前後。年1,500トンを割ると、フル稼働換算でおよそ100日分だ。70トンは繁忙期の上限で、年間を通した平均処理量ではない。
ここから導かれる実務上の問いは明快だ。残りの8割弱の生葉はどこから来ているのか。省内の他地区か、契約外の農家からのスポット買いか、別の集荷業者経由か。ヌ氏自身が2002年から2004年まで買付代理人として域内の工場に生葉を売っていた経歴を持つ以上、集荷網が契約枠の外に広く伸びていること自体は不自然ではない。ただ日本向けにロットを切るなら、トレーサビリティが成立する範囲と成立しない範囲の境目は、契約書とは別に地図と台帳で確認する必要がある。
周りは「どうかしている」と言い、農家は畑に戻ってきた
記事に出てくる反応を拾うと、この会社の評価は当事者と周辺で分かれている。
買収時、親族と友人はそろって反対した。厄介な負債を背負い込むだけだという見方が、当時の地元では常識に近かった。ヌ氏は買収を「会社を買ったと言えば聞こえはいいが、受け取ったのは書類上の名前だけだった」と語っている。
農家側の反応は、前渡し金と無利子の資材貸付が入ってから変わった。ヌ氏は、加工工場にきちんと投資する姿勢を見て茶の栽培者が安心し、集約的な手入れに投資し始めた結果、反収と品質が年々はっきり上がったと述べている。切り替えを考えていたトウモロコシやキャッサバに向かわず、除草・施肥・補植に戻った動きが記事に記録されている。
業界側の受け止めは、単価の低さに集中している。ヴィエトナム・エコノミーは2026年2月の記事で、ベトナムは茶の生産量が世界5位でありながら輸出単価が世界平均の半分ほどにとどまると指摘し、2026年は量ではなく価値の再定位に軸足を移す必要があると書いた。行政側の答えの一つが地理的表示だ。ベトナム知的財産局は2025年8月19日の決定第559号で、ライチャウの茶に地理的表示第00146号を付与している。対象は緑茶・烏龍茶・東方美人の3品目で、緑茶は樹齢の古いシャン種の「一芽二葉」を原料とすると定められた。ヌ氏が語る「一芽二葉」「朝露が引いた時間帯の摘採」という手順は、この地理的表示の規定と同じ線上にある。
輸出先がパキスタンと台湾に寄るのは、単価がその市場に合っているから
ダンヴィエットが挙げたシャン・チュック・タン社の輸出先は、パキスタンと台湾の2カ国だった。日本の名前は出てこない。これは同社固有の事情ではなく、ベトナム茶の輸出構造をそのまま映している。
ヴィエトナム・エコノミーがベトナム税関の数字として伝えた2025年通年の実績は、輸出量13万6,952トン、金額約2億3,800万ドル、平均単価1トン1,737ドル。金額首位はパキスタンの7,950万ドルで全体の33%を占め、台湾、中国を合わせた上位3市場で金額の53%に達する。栽培面積は約12万8,000ha。
なぜこの並びになるのか。単価を横に並べると理由が見えてくる。
| ルート | 単価(キロ換算) | 出所 |
|---|---|---|
| ベトナムの茶輸出平均(2025年) | 1トン1,737ドル=約274円 | ベトナム税関 |
| 台湾の緑茶輸入・ベトナム産(2023年) | 1トン1,898ドル=約299円 | Global Trade Atlas(ジェトロ整理) |
| 台湾の緑茶輸入・日本産(2023年) | 1トン9,422ドル=約1,484円 | 同 |
| 日本の紅茶バルク輸入・ベトナム産(2026年1〜6月) | 1キロ約371円 | 財務省通関統計 |
| 日本の紅茶バルク輸入・全体平均(同期) | 1キロ約723円 | 同 |
台湾は2023年にベトナムから緑茶6,634トンを1トン1,898ドルで買い、同じ年に日本産を1,721トン、1トン9,422ドルで買っている。量ではベトナムが日本の4倍近く、単価では日本がベトナムの5倍という並びだ。台湾市場でベトナム産が担っているのは、飲用の仕上げ茶ではなく調合や加工向けの大量安価な素地である。パキスタンも大量消費の紅茶市場で、価格が決定要因になる。ベトナム茶の主戦場は、安く大量に引き取る市場に最適化されている。
そして日本にも、ベトナム産は入っている。日本紅茶協会が財務省通関統計月表から整理した2026年1〜6月の紅茶バルク輸入では、ベトナム産が1万2,000キロ、445万円弱。総量680万1,050キロに対して0.18%で、単価は約371円/キロ。全体平均の約723円、スリランカ産の約879円、インド産の約884円より低く、ケニア産の約427円をさらに下回る最安層にいる。半年で12トンという量は、シャン・チュック・タン社が繁忙期にフル稼働した1日分の乾燥茶にも届かない。
つまり「日本が買っていない」のではなく、日本が買う量が桁違いに小さい。日本は緑茶の生産国で、飲用の緑茶を輸入で置き換える必要がない。紅茶では産地の格付けと調合設計が確立しており、ベトナム産が入る枠は価格帯の下限にある。ここに、次の制度要因が重なる。
日本の残留農薬制度は、買い手に何を求めているのか
日本では2006年5月29日に、食品中に残留する農薬等のポジティブリスト制度が施行された。厚生労働省の説明資料によると、残留基準が定められていない農薬等については「人の健康を損なうおそれのない量」が告示され、2005年厚生労働省告示第497号でその量が0.01ppmと定められている。基準を超えて残留する食品は、販売・輸入・加工が原則として禁止される。輸入時は国の検疫所が年間計画に基づいて検査し、違反が複数確認された場合は輸入のたびに検査がかかる。
制度の要点は、検査の義務づけではないところにある。同じ資料は、この制度が検査や検査結果の提出を義務づけるものではないと明記し、そのうえで食品等事業者は原材料の生産段階における農薬等の情報収集に努め、適切に管理されたものを使うことが求められると述べている。責任は数値の証明書ではなく、生産段階を把握する行為に置かれている。
この設計が、600戸から集まる生葉という調達形態と噛み合わない。1ロットの中に何十戸分の生葉が混ざり、そのうち契約外の分が含まれるなら、どの農薬がいつ使われたかを遡る経路が要る。ライチャウ省のVietGAP認証が57.4ha、有機が8.8haという水準は、その経路が書面として広く整っているとは読めない。台湾市場でも残留農薬は検査対象で、違反回数の多い品目には通常より高い抽出率の強化サンプル検査が適用されるとジェトロが注意を促している。買い手側の要求水準の差が、そのまま輸出先の並びを決めている。
実務で確認できる型は、すでにベトナム側に出てきている。収穫の40日前に農薬を止めた園地に日本の買い手が何を見に行ったかという事例や、省が3万6,000haのコーヒーを区分して期限付きで台帳を作らせた動きは、茶にも移植できる。
この加工場を訪ねるなら、どの帳簿を開けてもらうか
200ha規模の連携茶園と日量70トンの加工場を、日本向けの供給元として評価するなら、見る順番がある。
最初は園地の台帳だ。600戸の契約リストが、地番または区画図に紐づいているか。契約書に全量買取と規格が書かれているなら、その規格に農薬使用の条件が入っているか。前渡し金と資材貸付で肥料・生物農薬を供給しているという記述は、裏を返せば投入資材の記録が会社側に残りうることを意味する。貸付台帳と使用記録が突き合わせられるかどうかが、トレーサビリティの実体になる。
次に集荷の境目である。契約200ha分と契約外のスポット買いが、受入時点で分かれて記録されているか。分かれていなければ、日本向けにはロットを新設する話になる。生葉の受入伝票に農家コードが付くか、混ぜる前に区分保管できるかを工場で見る。
三つめは加工工程だ。荒茶ライン3基と精製1系統という構成で、日本向けだけを別に流せる時間帯や設備があるか。萎凋・揉捻・乾燥の各工程で温度と時間の記録が残るか。ヌ氏は工程ごとの管理を自分の言葉で説明しているが、それが本人の目視なのか記録として残る仕組みなのかは、現場でしか判別できない。
四つめは認証と行政書類の整合だ。ここでベトナム側の事情が絡む。2025年の行政再編でタムドゥオン県は旧単位になり、タイビン省もフンイエン省の一部になった。契約書、登記、認証書、輸出書類で地名の表記が世代をまたいで混在しうる。古い単位で書かれた書類が現在の行政単位と対応しているかは、初回取引の前に照合しておきたい。
五つめは価格の前提だ。同社の年商800億ドン近くを、国内向けを含めた出荷1,500トン近くで割ると、平均で1キロ5万3,000ドン前後、約320円になる。台湾がベトナム産緑茶を買う約299円、日本が紅茶バルクで買う約371円と同じ帯に収まる。この価格帯を前提に組まれた原価構造に、日本向けの記録・区分保管・検査の負担を乗せるとどうなるか。単価の引き上げなしに要求だけを足せば、話は続かない。
引き合いを出す前に用意しておきたい3つの質問
ライチャウのこの事例が示しているのは、ベトナム北部山岳に日本が買える規模と技術の加工場が育っているという事実と、その出口が価格優先の市場に固定されているという事実の両方だ。標高1,200〜2,500メートル帯の古樹シャン種という原料は、2025年に地理的表示が付いたことで少なくとも定義が定まった。品質の素地はある。足りないのは、日本の制度が求める生産段階の記録だ。
この規模の産地に問い合わせるなら、次の3点を先に用意しておくと話が早い。第一に、想定するロットサイズと年間数量。600戸から集まる原料のうち、どの範囲を切り出せば成立するかは数量次第で変わる。第二に、農薬管理について自社が求める条件を、認証名ではなく具体的な運用で書くこと。使用可能剤のリスト、収穫前の使用停止期間、記録の保存形式まで落とす。第三に、その負担を誰が持つかの提案。前渡し金と資材貸付で農家を動かしてきた会社なら、資材の指定と記録の交換条件を組む余地がある。
ベトナム茶の輸出単価が世界平均の半分にとどまるという構造は、買い手の側から見れば、条件を持ち込む余地が残っているということでもある。認証済みの茶園を探すよりも、契約と台帳が動いている産地に条件を持ち込むほうが、この省では現実的な入り口になる。
参照元
- Dân Việt「Nông dân Việt Nam xuất sắc 40 năm Đổi mới đến từ Lai Châu: Làm chè phải có cái tâm!」(2026年9月28日)
- VnEconomy「Xuất khẩu chè: Từ áp lực sụt giảm đến cơ hội tái định vị giá trị năm 2026」(2026年2月11日)
- Nông nghiệp và Môi trường「Khát vọng Lai Châu xanh: Dư địa lớn để bứt phá từ cây chè」(2026年4月21日)
- ベトナム知的財産局「Bảo hộ chỉ dẫn địa lý “Lai Châu” cho sản phẩm chè」(決定第559号/2025年8月19日)
- ジェトロ「輸出品目別レポート(緑茶)」(2025年7月)
- 日本紅茶協会「紅茶のデータ」(財務省通関統計月表/2026年6月分)
- 厚生労働省「食品に残留する農薬等に関する新しい制度(ポジティブリスト制度)について」