ベトナム中北部タインホア省で、自動車整備工だった34歳の男性が、水利用のため池を借りてティラピア(白身の淡水魚)の養殖に乗り出した。月収およそ1000万ドン(約6万円)の安定した仕事を手放しての転身だが、生産物は全量が加工輸出企業に買い取られる契約が付いている。個人の農家が、企業の買取保証を後ろ盾にして白身魚の供給に加わる――この一件は、日本の水産バイヤーがティラピアの「供給の作られ方」を読むうえで、覚えておく価値のある一例だ。
整備工をやめて、ため池に戻った34歳
主人公はハー・ヴァン・トアンさん(34歳)。タインホア省スアン・ズー村の第5集落で生まれ育ち、これまでは自動車整備の職に就いていた。収入は月に1000万ドン近く、地方では悪くない稼ぎだ。その職を離れて故郷のため池に戻る決断は、2025年末に知人からティラピアの単一種養殖という手法を聞き、複数の養殖現場を自分の足で見て回った末のものだった。
トアンさんは友人と共同で、3ヘクタール超の水利用ため池を借り受けた。池の改修と電気設備の設置に投じたのは2億5000万ドン(約150万円)。ここに17万尾の稚魚を放ち、初回の収穫でおよそ100トンを見込む。整備工の月給を積み上げるのとはまったく違う規模の勝負に、彼は最初の一歩から踏み込んでいる。
この話の新しさ――「作る前に売り先が決まっている」
トアンさんの養殖が普通の個人農家と違うのは、フンイエン省にある水産加工輸出企業と連携している点だ。この企業が稚魚と飼料を供給し、育った魚は全量を買い取る。ベトナム語でいう「バオティエウ(bao tiêu)」、つまり全量買取である。作ってから売り先を探すのではなく、売り先が決まった状態で作り始める。個人の新規参入者にとって、これは価格変動と売れ残りという二大リスクを最初から取り除く仕組みになっている。
同じ構図は、契約栽培で売り先を固めてから畑を回す唐辛子の事例でも見られる(摘めば完売する唐辛子、契約栽培が拓くベトナム産香辛料の原料)。企業が種苗・資材・買取をパッケージで握り、農家は生産に集中する。ティラピアでも同じ型が動き始めたことに、この記事の新しさがある。
5カ月で出荷サイズ、飼料は自動で撒く
養殖の中身も具体的だ。魚には1日2回、昼と夕方に餌を与える。人手を省くため、トアンさんは自動給餌機を6台導入した。放養から5カ月ほどで1尾600〜800グラムの出荷サイズに達する見込みだという。
いちばん神経を使うのが病気の早期発見だ。ティラピアは体表に傷がつきやすく、そこから真菌症などの皮膚病が出る。日々池を見回り、異変を早く捉えることが歩留まりを左右する。整備工として機械の不調を音や振動で察してきた経験が、生き物の異変を読む仕事に置き換わったともいえる。
数字で見る、初年度の設計
初回の見立てを一覧にすると、投資と回収の設計がはっきりする。金額は1円=約162VND(2026年7月の概算)で換算した。
| 項目 | 数値 | 円換算(概算) |
|---|---|---|
| 借入した養殖面積 | 3ヘクタール超 | ― |
| 初期投資(池改修・電気・共同) | 2億5000万ドン | 約150万円 |
| 放養した稚魚 | 17万尾 | ― |
| 出荷までの期間 | 約5カ月 | ― |
| 出荷サイズ | 1尾600〜800g | ― |
| 初回の予想収量 | 約100トン | ― |
| 買取価格 | 約30,000ドン/kg | 約185円/kg |
| 予想売上 | 約30億ドン | 約1,850万円 |
| 予想利益(諸経費控除後) | 5億ドン超 | 約300万円超 |
整備工時代の月収を約6万円とすれば、初回1サイクルの利益見込みはその4年分を超える計算になる。もちろん病気や斃死で崩れる余地はあるが、買取価格が先に決まっているぶん、農家が向き合うべき変数は「どれだけ健康に育て切るか」に絞られている。
地元は「初めての型」として注目している
スアン・ズー村農民会の会長ブイ・アイン・ソン氏は、この養殖モデルが地元で初めて現れた事例だと述べ、経済的な発展の見込みが大きいと評価している。村には数十のため池や利水ダムがあり、活用余地が残っているという。トアンさんの池がうまく回れば、遊んでいた水面が次々と養殖場に変わっていく余地がある、という見立てだ。
つまりこれは、一個人の成功譚にとどまらない。企業の買取契約という「型」が地域に持ち込まれ、余っている水利資源と結びつけば、供給は個人の池を単位にして下から積み上がっていく。ベトナムのティラピア供給が拡大するとき、その現場はこうした無数の小さなため池なのかもしれない。
日本の調達にとっての読みどころ
メコンデルタのカントー市では、市が主導してティラピアを戦略輸出魚種に育て、日本向けの刺身・寿司用フィレという用途まで見据えた輸出戦略が動いている(越ティラピアが回転寿司の主役になる日、カントーの輸出戦略)。カントーが「市の規模で供給網を設計する」話だとすれば、タインホアのトアンさんは「1つのため池で供給を組む」話だ。同じティラピアでも、供給が生まれる階層がまるで違う。
バイヤーの立場で見ると、後者の型――加工輸出企業が種苗・飼料から買取までを一括で握る契約――は、原料の安定調達を考えるうえで見過ごせない。川上を1社が握れば、品質と規格を揃えやすくなるからだ。パンガシウス(越産ナマズ)で加工品へ舵を切る流れ(越パンガシウスが量産をやめる日、加工品が拓く日本の調達戦略)と同じで、ティラピアでも「誰が川上を握っているか」を確かめることが、安定した仕入れルートを引く鍵になる。
連携型ティラピア養殖の要点
| 生産者 | ハー・ヴァン・トアンさん(34歳、元自動車整備工) |
|---|---|
| 所在地 | ベトナム・タインホア省スアン・ズー村 第5集落 |
| 魚種 | ティラピア(淡水養殖の白身魚) |
| 養殖方式 | 企業連携・全量買取(種苗・飼料を企業が供給) |
| 連携先 | フンイエン省の水産加工輸出企業 |
| 設備 | 自動給餌機6台、1日2回給餌 |
| 着手時期 | 2025年末に構想、ため池を賃借して開始 |
| 調達上の意味 | 1農家×1社の全量買取契約という供給形成の型 |
まとめ:見るべきは「魚」より「契約の設計」
タインホアの一件は、成功した養殖家の話にとどまらない。整備工から転身した個人が、企業の全量買取という後ろ盾を得て白身魚の供給に加わった――この契約の設計こそが、調達側にとっての読みどころだ。日本のバイヤーが確かめるべきは、ティラピアという魚そのものより、その魚を誰がどう集めているかだろう。フンイエン省の加工輸出企業のように、種苗から買取までを一気通貫で握るプレーヤーを早めに把握しておけば、既存の白身魚に代わる原料を安定して引くルートが見えてくる。まずはカントーの市主導モデルと、タインホアの企業連携モデルを並べ、自社の調達がどちらの供給に乗るのかを検討したい。
参照元:Đại Đoàn Kết