ベトナム最南端のカマウ省で、ホーチミン市のエンジニア職を捨てた31歳が「塩害地でなければ成立しない農業」を軌道に乗せています。ラム・クオック・ニュット氏が育てるのは、エビ養殖池の堤に自生する耐塩植物。そこから抽出した「植物の塩」などの加工品で、月およそ1億ドン(約60万円。本稿では1万ドン=約60円の概算レートで換算)の利益を上げていると、ベトナムの農業系ニュースサイト、ダンベトが2026年7月4日に伝えました。塩害を「治す」のではなく「塩に合う作物で稼ぐ」。この順序の逆転は、除塩を前提に組み立てられてきた日本の沿岸農業にも、無添加調味料の次の調達先を探す日本のバイヤーにも関わる話です。
都会のエンジニアが選んだ「塩の農業」の中身
ニュット氏はカマウ省フータン地区の出身。機械工学を修めてホーチミン市で働いていましたが、「サイゴンの仕事をすべて置いて、故郷カマウで塩の農業を追いかけると決めた」(ダンベトの取材への本人談)とUターンを決断します。都市在職中に栽培技術と植物保護を学び直したうえでの転身でした。
最初から勝ち筋が見えていたわけではありません。レモングラスやナスといった淡水前提の作物は、塩害地では実らず失敗に終わりました。そこで発想を切り替え、約30種の在来植物を試験して海水だけで育つ種を絞り込み、最終的にオーロー(マングローブ域に自生するトゲのある低木)、クアオ(マングローブ林の樹木)、ルック(海辺に生える薬用植物)、ソーリー(アセロラに近い果樹)の4種を製品原料に育て上げました。シーアスパラガスや海浜性の葉物野菜の栽培も並行して手がけています。
主力製品は、オーローの葉や茎から精製水でミネラル分を抽出し、濃縮・結晶化させてつくる「植物の塩」です。化学的な添加をせずに植物そのものから塩をつくる製法で、オーローは他の耐塩植物に比べ製塩効率が3〜4倍高いといいます。ほかにオーロー茶、オーロー由来のサプリメント、ソーリー果実の飲料を展開。2021年には法人ハロファイ(Halofai)を設立し、2022年6月には約1万平方メートルの塩害放棄地を最初の農園に変えました。
なぜカマウでは「除塩」より「適応」なのか
カマウ省はメコンデルタの最南端に位置し、三方を海に囲まれています。乾季には塩水が内陸深くまで遡上し、地域の主産業はすでにエビ養殖をはじめとする「塩水前提」の産業に移っています。淡水を引き込んで塩を洗い流す除塩は、水門や堤防への投資がかさむうえ、海面上昇が進む地域では効果が長続きしません。
ベトナム政府も2017年の決議120号以降、メコンデルタでは「自然に従う(トゥアン・ティエン)」を旗印に、淡水稲作への固執をやめて塩水・汽水を生かす産業構造への転換を促してきました。ニュット氏のモデルは、この国家路線を個人の事業として先取りした民間版といえます。エビ養殖池の堤に勝手に生えてくる「雑草」だったオーローを、海水と養殖の排水で灌漑しながら原料作物に変える。土地も水も作り替えず、売り物の側を土地に合わせた点がこのモデルの核心です。
数字で見るハロファイのモデル
ダンベトとVnExpressの報道から確認できる数値を整理します。
| 項目 | 数値(報道ベース) |
|---|---|
| 初期投資 | 約30億ドン(約1,800万円) |
| 開始農地 | 約1万平方メートル(2022年6月、塩害放棄地を転換) |
| 原料調達圏 | 20ヘクタール超(技術移転した地元農家との連携を含む) |
| 植物塩の生産量 | 月約100キログラム |
| 植物塩の歩留まり | 生のオーロー10キログラムから塩約200グラム |
| 植物塩の価格 | 250グラム入り15万ドン(約900円) |
| 植物塩単体の利益 | 月約2,500万ドン(約15万円) |
| 事業全体の利益 | 月約1億ドン(約60万円) |
| 増産計画 | 新工場の完成後に生産能力を3倍へ |
植物塩は250グラムで約900円。日常使いの食塩ではなく、産地と製法の物語で選ばれる高価格帯調味料の価格圏です。歩留まりは生葉10キログラムに対して塩200グラムと決して高くありませんが、原料が「自生する雑草の延長」で調達コストが軽いこと、塩害地という本来ゼロ価値の土地を使っていることが、この採算を成立させています。
現地と業界はどう受け止めたか
この取り組みへの反応は、報道・業界・海外の三方向から確認できます。
- 全国メディアの相次ぐ特集。VnExpress、タインニエン、トイチェー、ダンベトが2025年から立て続けに取り上げ、「月1億ドンを稼ぐ青年」「エビ池の脇に茂る野草で財を成す」といった切り口で報じています。投資系紙バオダウトゥーは同氏を「塩の土地を緑に変える創業者」としてCEOプロフィール記事で紹介しました。
- 起業コンテストでの評価。2021年にカマウ省の起業アイデアコンテストで2位、ベトナム商工会議所(VCCI)主催のメコンデルタ起業コンテストで1位を獲得しています。
- 海外からの引き合い。VnExpressによると、オーストラリア・カナダ・米国への流通パートナー提案がすでに届いており、輸出を視野に入れた増産計画が進んでいます。
- 地元農家の参加。技術移転と連携栽培によって、原料調達圏は20ヘクタール超まで広がりました。個人の実験が産地の面に転じつつあります。
「塩を治す」一辺倒からの脱却——日本の沿岸農業と調達への示唆
日本で塩害といえば、東日本大震災後の農地復旧に代表されるように「除塩して元の作物に戻す」のが正攻法でした。除塩は王道である一方、時間と費用がかかり、高潮や台風、地下水の塩水化が繰り返される沿岸部・干拓地では、戻してもまた振り出しに戻るリスクを抱えます。日本にもアイスプラントのように塩分環境を生かした野菜の商品化例はありますが、多くは単品野菜の販売にとどまってきました。ハロファイが違うのは、塩そのものを調味料という保存性の高い加工品に変えたことです。畑の制約が、そのまま製品の差別化要素になっています。
環境を作り替えるのではなく、環境に合う作物で稼ぐという設計は、森を伐らずに林床の縮砂で稼ぐランソン省の産地づくりと同じ思想です。また、都市からのUターン人材が一点突破の技術で産地を生む構図は、500平方メートルで年3作を回すハティン省の「韓国メロン」や電気工から転身したゲアン省のカエル養殖とも重なります。ベトナムの農業ニュースでこの型の成功例が続くのは偶然ではなく、気候変動で「これまでの作物が作れなくなった土地」が増え続けているからです。
調達の視点では、植物由来のミネラル塩は、無添加・クラフト調味料の文脈で日本市場と相性のよい素材です。藻塩や湖塩のように「どこで・何からつくったか」を語れる塩は、ギフトや高価格帯の加工食品の原料として使い道があります。ただし現状の生産量は月約100キログラムで、大口の調達には足りません。狙うなら、新工場稼働で生産能力が3倍になる局面を待ちながら、いまのうちに関係をつくっておく段取りになります。輸出先として挙がっているのは豪州・北米で、日本はまだ空白です。先に接点を持つ価値はここにあります。
留意点も書き添えます。現地ではオーロー茶やサプリメントが健康文脈で販売されていますが、日本で取り扱う場合は薬機法・景品表示法の観点から、効能をうたわない商品設計と表示の整理が前提になります。また「植物からつくった塩」は日本の食用塩の表示ルール上どう分類されるか、輸入時に規格・表示の確認が必要です。商材の物語性が強いほど、この足回りの確認が生きてきます。
ここから何を見るか——実用情報とまとめ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事業主体 | ハロファイ(Cong ty TNHH Nong nghiep man Halofai、2021年設立) |
| 創業者 | ラム・クオック・ニュット氏(31歳) |
| 所在地 | カマウ省フータン地区 |
| 主要製品 | 植物塩、オーロー茶、オーロー由来サプリメント、ソーリー果実飲料 |
| 参考価格 | 植物塩250グラム=15万ドン(約900円) |
| 生産規模 | 植物塩は月約100キログラム、新工場完成後に3倍へ |
| 受賞歴 | メコンデルタ起業コンテスト1位(2021年、VCCI主催)、カマウ省起業アイデアコンテスト2位(2021年) |
次のアクションとしては三つ。第一に、ハロファイの新工場稼働と生産量の推移を現地報道で追うこと。ロットが月300キログラム規模に乗れば、日本の小売・OEM原料としての現実味が出ます。第二に、クラフト調味料や無添加ギフトを扱うバイヤーは、豪州・北米勢より先にサンプル取り寄せと表示確認まで進めておくこと。第三に、国内の沿岸・干拓地に遊休農地を抱える自治体や農業法人は、「除塩して戻す」計画と並べて「塩に合わせて稼ぐ」選択肢を試験圃場レベルで検討する価値があります。塩害は消せなくても、商機には変えられる。カマウの31歳がそれを実額で示しています。