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ベトナム農業が直面する衛生管理の課題
ベトナムは人口約一億人を擁する農業大国として、コメ輸出量世界第二位、コーヒー生産量世界第二位という実績を持っています。農林水産業の総輸出額は2023年に約530億ドルに達し、国全体の輸出の15%以上を占める重要な産業です。
しかし、量的な成功の裏側には課題が潜んでいます。
過度な農薬・化学肥料の使用による土壌劣化や水質汚染、残留農薬の問題は、国内消費者の健康リスクと輸出先国の衛生基準への対応という二重の課題となっています。EU、日本、アメリカなどの主要輸出先は、残留農薬基準や衛生基準を年々厳格化しており、これに対応できない農産物は市場アクセスが困難になる可能性があります。
ベトナム政府は「2030年までの持続可能な農業農村開発戦略、2050年までのビジョン」を掲げ、農業の質的転換を国家的優先課題として位置づけています。この転換の核心にあるのが、国際基準に適合した衛生管理の確立です。
【ポイント1】食品安全法の理解と遵守

ベトナムでは食品安全法(Law on Food Safety 55/2010/QH12)を根拠とし、複数の政令・通達によって食品の衛生管理が規制されています。2025年には食品安全法の改正が進められており、主要なポイントとして以下が挙げられます。
禁止行為の拡大では、偽装広告や消費者情報の隠蔽、eコマース上の違法表示などが禁止されます。登録者の責任強化では、製品登録・自己申告の主体者に安全性・品質の責務が課され、違反時の登録取り消しリスクが強化されました。
さらに、リスクベース管理の導入により、高リスク製品・企業には厳格な監督が、低リスクには簡素化された手続き枠が用意される制度へと移行しています。
【ポイント2】GAP認証の取得と実践
GAP(適正農業規範)は、農産物の安全性と品質を確保するための国際的な基準です。ベトナムでは近年、農産物のトレーサビリティシステムの構築が進められていますが、小規模農家レベルでの実装は遅れているのが現状です。
ブロックチェーン技術を活用した産地追跡システムの導入や、GAP認証の普及が試みられています。しかし、全体としてはまだ初期段階にあり、中小規模農家への浸透が課題となっています。ベトナムの全農業従事者の97%が中小規模農家であることを考えれば、ローコスト型の認証取得支援モデルの開発が重要です。
【ポイント3】トレーサビリティの確保

生産履歴の記録と管理
トレーサビリティ(生産履歴の追跡可能性)の確保は、東南アジアの農産物が国際市場で競争力を高めるうえで重要な課題です。生産履歴の記録には、使用した農薬・肥料の種類と量、散布時期、収穫日時、保管条件などの詳細な情報が含まれます。
これらの情報を正確に記録し、いつでも提示できる体制を整えることが求められています。
デジタル技術の活用も進んでいます。スマートフォンアプリやクラウドベースのシステムを使用することで、農家は生産履歴を記録・管理できるようになりました。これにより、紙ベースの記録に比べて情報の正確性が向上し、データの紛失リスクも軽減されます。
ブロックチェーン技術の導入
ブロックチェーン技術を活用した産地追跡システムは、データの改ざんが困難であるという特性を持ちます。この技術により、消費者は購入した農産物の生産地、生産者、流通経路などの情報をリアルタイムで確認できるようになります。
ベトナムでは、一部の農業企業や協同組合がこの技術の実証実験を開始しています。しかし、導入コストの高さや技術的な複雑さが、広範な普及の障壁となっているのが現状です。政府による技術支援と経済的インセンティブの両面からの後押しが期待されています。
【ポイント4】日本向け輸出基準への対応

残留農薬基準のクリア
日本は世界でも厳格な残留農薬基準を設けている国の一つです。ベトナムから日本へ農産物を輸出する際には、日本の食品衛生法に基づく残留農薬基準を満たす必要があります。
この基準をクリアするためには、まず使用する農薬の種類を日本で認可されているものに限定することが重要です。さらに、農薬の使用量と散布時期を適切に管理し、収穫前の一定期間は農薬の使用を控える「休薬期間」を厳守する必要があります。
定期的な残留農薬検査の実施も重要です。第三者機関による検査結果を文書化し、輸出時に提示できる体制を整えることで、日本側の信頼を獲得できます。
輸出証明書の取得プロセス
2025年3月に発行されたCircular 08/2025/TT-BYTにより、輸出向け食品に関する証明書の発行手続きが明確化されました。これは輸出先の要求に応じて発行される「輸出証明」や衛生証明書の申請・発行プロセスを規定するものです。
輸出証明書の取得には、生産施設の衛生管理状況の検査、製品の安全性試験結果の提出、トレーサビリティシステムの整備状況の確認などが求められます。これらの要件を満たすためには、日頃からの衛生管理体制の維持が重要です。
【ポイント5】コールドチェーンの整備と品質保持

収穫後の温度管理
ベトナム農業の構造的課題の一つが、コールドチェーン(低温物流)の未整備です。収穫後の農産物が適切に保管・輸送されずに劣化・廃棄されるケースが多く、ポストハーベストロス(収穫後損失)は農業全体の収益を圧迫しています。
特に果物や水産物など腐敗しやすい品目では、冷蔵・冷凍設備の不足が輸出競争力の向上を阻んでいる現状があります。
収穫直後から適切な温度管理を行うことで、農産物の鮮度を長期間保持できます。予冷施設の導入、冷蔵トラックによる輸送、保管倉庫の温度管理など、一貫した低温管理体制の構築が求められています。
乾燥加工技術の活用
コールドチェーンの整備には多額の投資が求められるため、中小規模農家にとっては負担となります。この課題を解決する一つの方法が、乾燥加工や粉末加工といった一次加工技術の活用です。
熱帯の農産物は腐敗が早く、そのままでは長距離輸送や長期保存が困難ですが、乾燥や粉末化を施すことで保存性が向上し、物流コストも削減できます。乾燥野菜、乾燥果物、フリーズドライ製品は、健康志向の高まりを背景に先進国市場での需要が拡大しており、ベトナムの農産物が付加価値を持って先進国に届けられる手段となりえます。
ベトナム政府は2030年までに農業・食品加工で世界トップ15に入ることを目標に掲げており、加工施設への投資誘致、コールドチェーンの整備、ブランディングの強化を三本柱とする政策を推進しています。
【ポイント6】スマート農業技術による衛生管理の効率化
IoTセンサーによる環境モニタリング
ベトナム政府はスマート農業の導入を国家的優先課題として位置づけています。IoTセンサーによる環境モニタリング、ドローンによる農薬散布、AIを活用した病害虫予測、水耕栽培の自動化など、さまざまな技術が各地で実証されています。
ラムドン省(ダラット周辺)は、ベトナムにおけるスマート農業の先進地域であり、野菜栽培の温室システムや自動灌漑システムが導入されています。メコンデルタでは、水管理システムの導入による節水型稲作の実証が進んでいます。
日本企業による技術協力も活発で、中小規模グリーンハウスの導入や遠隔栽培支援ソリューションの実証事業が展開されています。
データ分析による予防的管理
スマート農業技術の価値は、データ分析による予防的管理にあります。土壌の水分量、気温、湿度などの環境データをリアルタイムで収集・分析することで、病害虫の発生を事前に予測し、最小限の農薬使用で効果的な防除が可能になります。
これにより、残留農薬のリスクを低減しながら、収量の安定化も実現できます。ただし、スマート農業の導入には初期投資が求められるため、資金力の乏しい小規模農家への普及が課題となっています。高価な設備を前提としないローコスト型のスマート農業モデルの開発が重要です。
【ポイント7】日ASEANみどり協力プランの活用
国際協力による技術移転
2023年5月の日ASEAN農林大臣会合で採択された「日ASEANみどり協力プラン」は、アジアモンスーン地域の持続可能な農業・食料システムの構築に向けた包括的な協力枠組みです。日本は「みどりの食料システム戦略」で掲げる環境負荷低減技術の国際展開を、ASEANを重要パートナーとして位置づけています。
具体的には、精密農業技術の移転、有機農業の推進支援、温室効果ガス排出削減のための水田管理技術の導入、そして農産物バリューチェーンの高度化支援が柱となります。日本の強みは、中小規模農家に適した技術やノウハウを持つ点にあります。
大規模農業を前提としたオランダや韓国のスマート農業ソリューションとは異なり、日本の農業技術は東南アジアの小規模農家の実情に適合する可能性があります。
出典 農林水産省「ベトナムにおける農産物・食品の規格・認証制度の活用促進 最終報告書」(令和2年度)より作成
有機農業への転換支援
東南アジアでは、従来型の化学農業から有機農業・持続可能な農業への転換が、各国政府の政策課題として浮上しています。ベトナムでも、農業農村開発省が有機農業の拡大を政策目標として掲げていますが、有機認証を取得した農地面積はまだ全体のごくわずかに過ぎません。
有機農業への転換には収量の一時的な低下が伴うことが多く、余裕のない小規模農家にとってはリスクとなる場合があります。有機認証の取得コストや、認証基準に適合した生産管理の複雑さも障壁となっています。技術支援と経済的インセンティブの両面から、転換を後押しする仕組みの構築が期待されています。
まとめ:持続可能な農業への転換が未来を拓く
ベトナム農業が国際市場で競争力を維持・向上させるためには、衛生管理の徹底が重要です。食品安全法の遵守、GAP認証の取得、トレーサビリティの確保、残留農薬基準のクリア、コールドチェーンの整備、スマート農業技術の導入、そして国際協力の活用。これら7つのポイントを実践することで、ベトナムの農産物は世界市場で信頼される高品質な製品として認知される可能性があります。
量から質への転換は容易ではありません。
しかし、この転換こそが、ベトナム農業の持続可能な発展を実現する重要な道筋です。小規模農家の97%を占める現状を踏まえれば、ローコストで実践可能な衛生管理手法の開発と普及が重要です。日本をはじめとする先進国の技術とノウハウを活用しながら、ベトナム独自の農業モデルを構築していくことが、次の十年の成功を左右する可能性があります。
一億人の胃袋を支えるベトナム農業は、今まさに変革の只中にあります。衛生管理の実践を通じて、世界に誇れる農業大国への道を切り拓いていきましょう。