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ドイモイ政策とは何か?ベトナムの歴史的転換点
ドイモイ(Đổi Mới)とは、ベトナム語で「刷新」を意味する言葉です。1986年12月、ベトナム共産党第6回党大会で採択されたこの経済改革政策は、ベトナムの経済構造を大きく転換させました。
それまでベトナムは、中央集権的な社会主義経済体制の下で経済停滞に直面していました。1976年の南北統一後、政府は重工業化路線を推進しましたが、成果は限定的でした。第2次5カ年計画(1976~1980年)では、生産国民所得の成長率目標を13.0~14.0%と設定していたものの、実績はわずか0.4%にとどまりました。工業も農業も成長が停滞し、国民生活は困窮していました。
1986年、親ソ連路線を推進していたレ=ズアン党書記長が死去すると、新たに就任したグエン=ヴァン=リン書記長がドイモイ路線を宣言しました。この政策転換の背景には、ソ連でゴルバチョフ政権が登場しペレストロイカが進行していたこと、中ソ関係が改善されたことなど、国際情勢の変化もありました。
ドイモイ政策は、社会主義一党独裁体制を維持しながら市場経済を導入する改革でした。具体的には、①通貨膨張の抑制、②物価高の鎮静、③生活難の解消、④財政赤字の縮小という「4つの減少」を掲げ、米を中心とした食料増産、消費財中心の軽工業重視、輸出奨励、外国企業への門戸開放などを推進しました。
出典 経済企画庁「平成4年 年次世界経済報告 第3章 市場経済移行国の経済改革と世界経済への融合」(1992年)より作成

ドイモイ政策以前のベトナム農業――停滞と危機の時代
ドイモイ政策の意義を理解するには、それ以前のベトナム農業の状況を知る必要があります。
南北統一後の社会主義化
1976年の南北統一後、ベトナム政府は南部にも中央集権的な社会主義経済体制を導入しました。それまで自由主義経済体制にあった南への経済統制を強め、農業の集団化を推進したのです。しかし、この政策は農民の生産意欲を低下させる結果となりました。
農家は収穫物を国家に低価格で供出することを義務づけられ、自由な販売は制限されました。重工業優先政策の下、農業部門から低価格の原材料を工業部門へ投入する仕組みが作られましたが、農業への投資は不足し、生産性は停滞しました。
食糧不足の深刻化
1980年代初頭、ベトナムは食糧不足に直面していました。コメの生産量は国内需要を満たすことができず、1980年の米生産量は1,165万トンにとどまりました。
政府は1981年に部分的な改革を試みました。農家が契約量を上回る部分については自由に処分できるようにし、米の買上価格を一挙に5倍に引き上げたのです。この措置により、1985年には米生産量が1,589万トンまで増加しましたが、根本的な解決には至りませんでした。
財政赤字とインフレ
経済政策の失敗は、財政赤字の拡大を招きました。国営企業を保護するための価格差補助金が国家財政を圧迫し、1985年の財政赤字は対GDP比で17.1%に達しました。この赤字の約6割を中央銀行からの借入れで補填したため、通貨供給量が急増し、1986年には消費者物価上昇率が700%を超えるインフレが発生しました。
このような状況の中で、ベトナムは抜本的な経済改革を迫られたのです。
出典 経済企画庁「平成4年 年次世界経済報告 第3章 市場経済移行国の経済改革と世界経済への融合」(1992年)より作成

ドイモイ政策がベトナム農業に与えた7つの影響
影響①:土地使用権の個別農家への付与
ドイモイ政策の重要な改革の一つが、土地使用権の個々の農家への付与でした。それまでの集団農業体制から脱却し、農家が自主的に生産活動を行えるようになったのです。
この改革により、農民の生産意欲が向上しました。自分の努力が直接収入に結びつくようになったことで、農業生産は拡大しました。ベトナムの農家の平均耕地面積は約0.44ヘクタールとASEAN諸国の中でも最小クラスですが、小規模ながらも自立した経営が可能になったのです。
影響②:コメ輸出大国への転換
ドイモイ政策の成果は、短期間で現れました。1989年、ベトナムは初めてコメの純輸出国に転じたのです。それまで食糧不足に苦しんでいた国が、数年で輸出国になるという変化でした。
現在、ベトナムのコメ年間生産量は約4,350万トンで、輸出量は世界第二位を誇ります。メコンデルタは国内コメ生産量の半分以上を担う世界有数の生産地帯となり、輸出向けコメの大部分がこの地域から出荷されています。
影響③:市場経済の導入と価格自由化
ドイモイ政策は、農産物の市場経済化を推進しました。1987年から1989年にかけて、公定価格を市場価格化する一連の自由化政策が実施されました。
それまで市場価格と国家が定めた固定価格との間には大きなかい離があり、その差を補填するための補助金が財政を圧迫していました。価格自由化により、このかい離が解消され、市場メカニズムが機能するようになりました。農家は市場の需要に応じて生産品目を選択できるようになり、農業の多様化が進みました。
影響④:コーヒー・カシューナッツなど輸出作物の成長
ドイモイ政策により、コメ以外の農産物も成長しました。特に顕著だったのがコーヒーです。
中部高原(タイグエン)を中心に、コーヒー栽培が拡大しました。ベトナムはコーヒー生産量で世界第二位、特にロブスタ種では世界最大の生産国となりました。また、カシューナッツとブラックペッパーの生産量は世界第一位を誇ります。
2023年の農林水産業総輸出額は約530億ドルに達し、国全体の輸出の15%以上を占めるまでになりました。ドイモイ政策が、ベトナムを農業輸出大国へと変貌させたのです。
影響⑤:外資導入と農業技術の近代化
ドイモイ政策は、外国企業への門戸開放も含んでいました。これにより、海外からの投資と技術が農業分野にも流入するようになりました。
灌漑インフラの整備、高収量品種の普及、農業機械の導入など、農業技術の近代化が進みました。国際稲研究所(IRRI)が開発した洪水耐性品種「Sub1」や塩害耐性品種がベトナムで普及し、気候変動への対応力も向上しました。
影響⑥:水産業の発展――エビ養殖の成功
ドイモイ政策は、水産業にも影響を与えました。特にエビ養殖は、ベトナム農業の成功事例の一つです。
ベトナムはエビの生産量で世界第三位、輸出量では第二位を占めています。メコンデルタを中心に、エビ養殖が盛んに行われ、水産物の輸出額は年間約90億ドルに達しています。日本、アメリカ、EUが主要な輸出先となっており、ベトナムの重要な外貨獲得源となっています。
影響⑦:農業構造の変化と新たな課題の顕在化
ドイモイ政策により、ベトナム農業は量的に拡大しましたが、同時に新たな課題も顕在化しました。
農業はGDPの約12%を占め、労働人口の40%以上が従事していますが、全農業従事者の97%が中小規模農家であり、農業労働者の約57%が非熟練者、50歳以上の割合は約43%に達しています。若年層の都市部への流出が続き、農業の担い手不足と高齢化が進んでいます。
また、農産物輸出の大部分が未加工の一次産品であり、付加価値の低さが課題となっています。コールドチェーン(低温物流)の未整備により、収穫後損失も大きく、農業全体の収益を圧迫しています。
出典 農林水産政策研究所「主要国農業戦略横断・総合 プロ研資料 第7号 第2章 ベトナム‐コメおよび農地に関する政策とその背景」(2018年3月)より作成

ドイモイ政策後の現代ベトナム農業――課題と未来への展望
量から質への転換期
ドイモイから約四十年が経過した現在、ベトナム農業は新たな転換期を迎えています。量的拡大の恩恵は頭打ちとなり、「農業生産」から「農業経済」へ、すなわち量から質への転換が求められています。
ベトナム政府は「2030年までの持続可能な農業農村開発戦略、2050年までのビジョン」を掲げ、スマート農業の導入を国家的優先課題として位置づけています。IoTセンサーによる環境モニタリング、ドローンによる農薬散布、AIを活用した病害虫予測など、さまざまな技術の実証が進んでいます。
気候変動への対応
ベトナム農業が直面する課題の一つが気候変動です。メコンデルタは海抜が低く、海面上昇による塩水浸入や洪水のリスクが年々増大しています。
耐塩性・耐旱性のあるコメの品種開発、水管理技術の改善、農業保険制度の整備などが進められています。農業の立地戦略そのものを見直す必要性も指摘されています。
付加価値向上への取り組み
ベトナム政府は2030年までに農業・食品加工で世界トップ15に入ることを目標に掲げ、加工施設への投資誘致、コールドチェーンの整備、ブランディングの強化を推進しています。
乾燥加工や粉末加工といった一次加工技術が注目されています。熱帯の農産物は腐敗が早いですが、乾燥や粉末化により保存性が高まり、物流コストも削減できます。乾燥野菜、乾燥果物、フリーズドライ製品は、健康志向の高まりを背景に先進国市場での需要が拡大しており、付加価値を持って届けられる手段となっています。
日本との協力――「日ASEANみどり協力プラン」
2023年5月の日ASEAN農林大臣会合で採択された「日ASEANみどり協力プラン」は、アジアモンスーン地域の持続可能な農業・食料システムの構築に向けた包括的な協力枠組みです。
日本は「みどりの食料システム戦略」で掲げる環境負荷低減技術の国際展開を、ASEANを最重要パートナーとして位置づけています。精密農業技術の移転、有機農業の推進支援、温室効果ガス排出削減のための水田管理技術の導入、農産物バリューチェーンの高度化支援などが進められています。
日本の強みは、中小規模農家に適した技術やノウハウを持つ点にあります。ベトナムの小規模農家の実情に適合する可能性が高く、今後の協力拡大が期待されています。
出典 日本政策投資銀行設備投資研究所「経済経営研究 Vol. 27 No. 4 ドイモイ(刷新)政策導入後のベトナムに於ける」(2007年3月)より作成

まとめ――ドイモイ政策が示した改革の力
ドイモイ政策は、ベトナム農業を大きく変革しました。1986年の改革開始から、数年でコメの純輸出国に転じ、現在では世界有数の農業輸出大国となっています。
土地使用権の個別農家への付与、市場経済の導入、価格自由化、外資導入など、ドイモイ政策が農業に与えた影響は大きなものでした。コメ、コーヒー、カシューナッツ、エビなど、多様な農産物で世界トップクラスの生産・輸出量を誇るまでになりました。
しかし、課題も残されています。付加価値の低さ、コールドチェーンの未整備、小規模農家の生産性の低さと高齢化、気候変動への対応など、解決すべき問題は少なくありません。
それでも、ドイモイ政策が示した改革の力は、今後のベトナム農業の発展にとって重要な指針となるでしょう。量から質への転換、スマート農業の導入、持続可能な農業への移行など、新たな改革が進められています。
ベトナム農業の未来は、ドイモイ政策が築いた基盤の上に、さらなる革新を重ねることで切り開かれていくのです。
ベトナム農業の発展に関心をお持ちの方は、ぜひ最新の動向をチェックし、ビジネスチャンスや協力の可能性を探ってみてください。東南アジアの農業大国ベトナムは、これからも世界の食料供給を支える重要な役割を果たし続けるでしょう。